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−−あなたは長い間、脚本家として活躍し、それから監督をなさいました。現在ではこの二つをどうふり分けていらっしゃるのですか。また、どちらがあなたの本領なのでしょう。
「私はずっと書く仕事をしたいと思っていました。それが世の中で一番素晴らしい仕事だと思っていたからです。デビュー当時、私は、ロシアの作家であり、ジャーナリストであり、編集者でもありました。当時の世の中や私たちの生活はとても風刺に適したものでしたから、私は現実を払いのけるために、ユーモア小説を書いていました。その後、映画大学へ行き、脚本を書き始めたのです。多くの作家同様、私も自分の脚本の映画化作品にひどくがっかりさせられました。時にはそんな映画が商業的に大成功をすることがありましたが、私の不満は変わりませんでした。ご存知のように当時のソ連には厳しい検閲があり、作者は“行間”に思いを込めるのが普通でした。映画の検閲は文学に対するものよりずっと厳しかったのです。どんなごまかしもききませんでした」
−−体制の交代と検閲の終わりの頃、あなたはどうしていらっしゃいましたか?
「私は84年に最初の映画を撮ったのですが、89年に三作目の『自由はパラダイス』を撮り、これが国際的に認められました。それは嬉しかったのですが、私自身は作品の出来に不満が残りました。このとき、映画の監督がいかに芸術的に困難であるかが判ったのです。結局、本音としては、脚本を書いて、映画を頭の中で想像するのが、一番幸せなことだと思います。それでも毎回、次の映画はきっと、今回よりましなものになると思わずにはいられないものですから、こうして今も監督を続けているわけです」
−−レジス・ヴァルニエとはどのように知りあったのですか?
「レジスとは96年のカンヌ映画祭で知りあいました。そこで、私の『コーカサスの虜』が上映されたからです。私たちの出会いは、まさに晴天の霹靂でした。私たちは即座に、お互いが同じ世界の言葉を話すことを理解したのです。続いて、レジスがチェコのカルロヴィ・ヴァリ映画祭の審査員をつとめ、私の映画がグランプリを受賞しました。こうして私たちは、とても親密な仲になり、それから彼は私にロシア人の話を映画にしたいとを打ち明けたのです。スターリンの呼びかけに応じて国へ帰った人たちの物語です。私はすぐに賛同し、激励しました。この時は、まさか自分が脚本に関係するようになるとは思いませんでしたが、ただ、すごくドラマティックな題材だなと思ったのです。今までこういったテーマに注目した人は、誰もいませんでしたし、1946年にキエフに上陸し、まったくの別世界に出会ったフランス女性の話は、私の心をとても強く打ち、自分の子供時代の日々を思い出さずにはいられませんでした」
−−脚本を執筆するにあたり、ご自身の体験を思い出されたのですか?
「当然です。レジスがこの映画の脚本に参加を要請してきたとき、私はとても喜びました。子供時代、私はモスクワの共同アパートで、他の11家族と一緒に暮らしました。そういう人たちの間で、どれほどの話が生まれるか、想像できるでしょう。密告、巧妙なごまかし、冗談、とにかく何でもありました。私は泥棒の家族も知っていました。私の家族もその被害にあったのですが、それもちゃんと脚本に取り入れましたよ」
−−根底のところで、あなたはこの暗い時代にむしろ楽しい思い出を持ってらっしゃるようですが?
「いえ、決してそうとは言えないと思います。私は子供時代に起きた恐ろしい事件を、忘れることができません。しかし、それから何年も過ぎた現在、私は作家として、あれほどの暗い時代にもかかわらず、どんなにユーモアがあったかということを書いておきたいと思ったのです。子供時代に2人の友人がいて、ともにロシアの素晴らしい作家になったのですが、その後、彼らは逮捕され、収容所へ送られてしまいました。16年間もそこで暮らしたのです。今では彼らは毎年、収容所仲間と集まり、釈放の思い出を祝っていますが、彼らはこんなエピソードを語ってくれました。“収容所で10年一緒に過ごした奴がいて、再会したときに、もう冗談が言えなくなっていたんだ。まるでいい思い出がひとつとしてなかったみたいにね。あきれるじゃないか”と。そして、これを語ってくれた友達はそのとき、まったく落胆した様子でした。私はこのエピソードが大好きです。そこにロシア魂が反映されていると思うからです」
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