ソ連は1941年から45年にかけての“大祖国戦争”(第2次世界大戦)によって、かつてないほどの勢いで勝利を得た。そしてその直後、スターリンは弾圧組織の再構成に着手することを決意する。というのも、これまで直面することのなかった“反革命者”の流入に対応しなくてはならなくなったからだ。それはドイツで捕虜となった150万人の軍人と250万人の民間人からなるロシア人、ドイツで戦った“ヴラソヴィスト”と呼ばれる15万人の兵士たち、20万人のウクライナ人を含めた“ごろつき、民族主義者のメンバー”。そして、自らの意志で“母なる祖国”へ戻ってきた亡命ロシア人たちである。

さまざまな経路を経て、フランスから祖国に到着した亡命ロシア人たちは、スターリンの言う“特赦”が、46年6月14日にソ連邦の最高会議が正式に決定した恩赦であることを信じて疑わず、実は彼らが張りめぐらした巧妙な罠であるなんてことは思ってもみなかった。それゆえ、彼らは帰還の旅の道中、GIや“トミー(イギリス兵の意)”、フランス人までもが惜しげもなく与えた、さまざまな警告を無視したのである。実際、オーストリアのどの駅でも「慎重に、もう一度考え直すように」と拡声器で呼びかけていたのだが、その言葉が彼らの耳に入ることはなかったのだ。

それ以前に有罪の判決を受けていた“白い亡命者(白ロシアからの亡命者)”は収容所送りとなるか、流刑を受けるかのどちらかだったが、それは1926年に刑法第35条として定められた「シシルカ法」(国が定めた別な地域への強制移住を決めた法)を受けての判決であった。彼らには“自発的流刑”と呼ばれる法手続きが適用された。