この特定の地方への住居の割り当ては、政治警察による秘密の指示によって一方的に決められ、しかも抑留が無期限だった。それにもかかわらず“自発的”と呼ばれるのは、犠牲者が「まったく自由にこの町、この地方に住むことを選びました」という書類に、強制的に署名させられたからである。そして、ひとたびその地に落ち着くや、“国内用パスポート”なしには、どこへ旅行することも許されなかった。そのパスポートを入手するためには、お役所での厳しい検査を受けなくてはならず、さらに雀の涙ほどの数しか発行されることはなかった。そして、“白い亡命者”の配偶者は、たとえ外国人であっても、彼らの同類と見なされたのだった。これは帰還者問題局によって法的に定められ、当時の局長ゴリコフ将軍は、1944年末にこの任に命じられるまで、軍情報部の部長を務めていた。

これらの処置に対して、1946年、クグロフ将軍の指導下で、「保安中枢部」組織が改定された。しかし実際には、スターリンの信頼を得ることの出来た、数少ない人間のひとりであるベリアがグラーグ(労働による再教育施設総務局、いわゆる収容所)を含む、弾圧のために動く機関、そのすべての采配を振るっていた。全国くまなく張りめぐらされたこの“政府機関”、つまり収容所は、クズミッチ=ボグダノフ将軍の配下に置かれ、250万人におよぶ拘留者を“凍りつかせた”のだった。その拘留者の半数は政治犯であり、5人に1人は女性であった。1935年4月7日と1940年12月10日に制定されたこの法律は、適応年令を14歳から12歳へと引き下げることによって、子供たちをもその餌食となるよう、改憲したのだった。

1953年3月、スターリンの死によって、ベリアは120万人の囚人に最初の特赦を決定した。が、その全員が普通犯だった。権力抗争の一環から、ニキータ・フルシチョフがその適応をさらに政治犯にまで広げ、54年から57年の間に、40万人が収容所から解放された。60年代以降、収容所の政治犯は、300万人弱という拘留者総数に対して、“わずか”数千人にすぎなくなったのである。