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謎がなければ、切望などありえない。
たやすいことは、切望には繋がらないのです。


あなたの映画にはいつも何かこう、はっきりとした意図、こういうものを作りたいのだという強い意図が伺われます。

パトリス・ルコント(以下PL)「最初、『フェリックスとローラ』にはいろんな着想が浮かびました。『サン・ピエールの生命』のような、ちょっと重い作品、いわゆる“大作仕立て”の作品が続いた後で、軽やかで、すっきりとした、スリムな映画を作りたくなったのです。わずか数行で話が要約できるような映画を。
それで、移動遊園地を舞台にした愛の物語はどうだろうと、あれやこれや漠然と考えていたのです。
私は時間を忘れさせてくれるような場所、日常生活とは離れた場所が大好きです。ミュージックホールとかサーカスといったような場所です。さまざまな場所で開かれる市が立つお祭りの賑わいというのは、まさに移動して歩く“火星”の世界を訪れるような気になります。回転木馬に乗ってぐるぐる回っている時間というのは、日々のわずらわしさから完全に切り離され、出会わないはずの人たちと一緒に回る、まさに別世界のものです。
それで浮かんだアイディアというのが、バンパー・カーのオーナーと、どこか他の星からやってきたとしか思えないような女を出会わせてみたらどうだろうというものでした。
女は、綿菓子や回転木馬が醸し出す、誰もが子供に戻ったような陽気な雰囲気からはまったく浮いて見える。一体どんな女なのだろう。どうしてあんなに深い悲しみを目に浮かべているのだろう。とまあ、これが最初の発想だったのです」

そこからどのようにストーリーにしていったのでしょうか?

PL「普通、映画のアイディアがどうして生まれてきたかは、明確には覚えていないものです。
ところが奇妙なことに、『フェリックスとローラ』だけはどこでどう生まれたかをはっきり覚えているのです。
私は車の中にいて、もう幾度聞いたか解らない、アラン・バッシュングのアルバム“軍隊幻想曲 Fantasie militaire”の中の大好きな曲“外 Dehors”を聞いていました。リピートにプログラムしていたのですが、その間、私は関係のないイメージを思い浮かべていました。どこででも見受けられる、平凡な田舎のダンスホール、そこのミラーボール、踊っているさまざまのカップル、男の歌手がスローな曲を歌っている、まさにこの歌手、まさにこの歌……。店の片隅にひとりの男がいる。レインコートを脱ごうともせずに、この歌手をじっと見つめている。それが不意に、まるで夢遊病者のような動作でピストルを取り出して発射する。歌手が倒れる。これがオープニングのシーンです。それをいきなり最初に持ってこよう。そして、映画のストーリーが展開していけばしていくほど、観客がこのトップシーンを思い出して、少しづつ気がかりになり、恐れを抱くようにする。ところが最後になって、このシーンがまったく別な様相を帯びる……。
そう、それこそがまさにミステリーなのです!」

ローラという女性と、彼女の抱える秘密について語っていただけますか。
あまり正体を暴露せずに、この愛すべき女性の嘘を説明するとどうなるでしょうか?

PL「ローラが病気にかかっているとか、隔離が必要な女性というわけではありません。私たちみんなが多かれ少なかれ経験する、特に青春時代にありがちな、自分という人間を見極めきれないでいる不安をずっと引きずっている女性なのです。彼女は今でも本当の自分とは違う人間、違う人生を夢想しつづけているのです。現在のあるがままの自分、あるがままの人生が、本来のものではないような気がして仕方がないのです。
そして、人をひきつけるには、何か自分に神秘的なヴェールをまとわせなければいけないのだと思い込んでいるのです。これは誰にも思い当たるはずです。自分の個性が何か貧弱なものに感じられ、不満を覚える時期というものがあるものです。それで、自分にはまったく欠けている要素を持ち併せた人間を頭の中で作り上げます。自分にないドラマを、自分に縁のなかった絶望、陽気さを作り出すのです。そのことを、どうして責められるでしょうか。
これは特に若い女性に多いことではないかと思うのです。間違っているかもしれませんが、多分、男性より女性の方がはるかにロマンティストなのではないでしょうか。それは私にはうらやましいことに思えるのですが……」

別な人生、別な過去、別な話、別な人間をでっち上げる…。それはまさしく監督の役割ではないですか!

PL「そして俳優の役割でもありますね。映画をサイコドラマや精神療法にしてしまわずに、ただ純粋に映画を見ることによって、自分なら決して手にすることのないような人生のドラマを生きたような気持ちになれるというのは本当です。そうすることで、現在の自分に満足するという不満の解消になるのです。
私は、自分とは無関係な人生を映画にするのが大好きです。おかげでいろんな人生を経験することができるからです。
私は『仕立て屋の恋』『橋の上の娘』を作りましたし、『フェリックスとローラ』を撮りました。ジャン・ロシュフォールが髪結いと結婚することは、それは私には不自然でもなければ、奇妙なことでもありません。結婚式に出るかのように楽しくなれるのです!」

ローラがもう“娘”という年齢でないのがおもしろいですね。
そして、この女性をシャルロット・ゲンズブールが自分の役にこなしているのが素晴らしいと思いました。

PL「私は30歳の女性が思春期特有のアイデンティティの模索に、まだ苦しんでいるという姿を想定し、そのことに心を打たれるというか、本当に激しい感動さえ覚えたのです。
驚くべきことに、このローラという女性は、思春期のあの不可思議な矛盾を今もって抱え込んでいるのです。またそれだからこそ、私はこの役にはシャルロット・ゲンズブールこそ、最も理想的な女優だと考えました。
シャルロットがまだ思春期だったころの彼女は、あの矛盾を見事に体現していました。
今、こうして、それをもう少し極端に押し進めた役を彼女に割り振ったら面白いのではないかと思ったのです。欠落感と幻想を今も抱きつづけている女性の役を」

ローラの問題というのは、ごく“当たり前”の子供時代を過ごしたことにあるわけですか?

PL「幸せな人にはドラマがないと言います。
ローラはフェリックスに最後にこう告白します。“私は当たり前の子供時代を過ごし、両親は私を可愛がってくれた。学校での成績も悪くなかったし、何か不幸な思いというものを味わったことがなかった……。平穏だけど、生きている手応えもないの”と。
多分、充分には説明しきれてないと思うのですが、といってあまり強調したくなかったのですけれど、ローラはミステリー小説を読みふけって大きくなったというふうな解釈をしてもらえたらと思ったのです。クロード・クロッツと脚本を書いているとき、私がこう言ったことを覚えています、「彼女はアイリッシュ(ウィリアム・アイリッシュ、アメリカのミステリー作家、コーネル・ウールリッチの別名でも活躍)とディヴッド・グーディス(アメリカのハードボイルド作家。『溝の中の月』の原作者としても知られる)の全作品を暗記しているくらいに読み込んでいるのだ”と。
そうした暗い影を持つヒロイン、悪女、ファムファタルたちが出てくる小説の中に、ローラは自分を投影しながら育ったのです。自分をそうしたドラマの主人公に見立てることがいつしか身についてしまったのです。メロドラマの主人公のように、目の縁を黒く隈どった化粧を、私は想像しました。
シャルロットはそんな私のイメージに従ってくれて、眼差しを特に強調するようなメーキャップを彼女とあれやこれやと試しながら、ずいぶん楽しみました」

ローラの眼差しには限りない悲しみが湛えられています。その眼差しが、まさにフェリックスを惹きつけるわけです。

PL「その通りです。お祭りの賑わいは陽気です。から騒ぎのようなものといってもいいかもしれません。
しかし、だからこそ、そうした楽しみを欲する人々がいつもいつも集まってくるのです。そんな陽気な人たちというものは、フェリックスにとっては、見慣れた風景のようなものです。だから逆に謎めいた娘、体つきにも特徴があり、悲しげで、何かに疲れた様子が窺え、人からバンパー・カーをぶつけられるがままにされているという女に、彼は眼を奪われてしまうのです。葬式で楽しそうな女性が明らかに注意を惹くのと同じです」

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