|
解 説 19世紀末から20世紀初頭の英米文学界を代表する作家ヘンリー・ジェイムズ。その彼の晩年の最高傑作にして、膨大な一大長編「金色の盃」が、『眺めのいい部屋』『ハワーズ・エンド』など、エドワード朝時代のイギリス社会を描かせれば、右に出るものはいない名匠ジェイムズ・アイヴォリーの手によって、ついに映画化された。 ここ数年、ジェイムズ文学の映画化は、ジェーン・カンピオン監督の『ある貴婦人の肖像』、イアン・ソフトリー監督の『鳩の翼』、そしてアグニエシュカ・ホランド監督の『ワシントン広場』(日本未公開)と、ちょっとしたトレンドになっているが、その中でも本作『金色の嘘』は、原作が複雑な人間の内面描写と難解な文体で文字通り映画化不可能といわれた「金色の盃」だけに、まさに映画的な事件となり、2000年のカンヌ映画祭コンペティションでワールドプレミア上映されるや、センセーショナルな話題を巻き起こし、同時に『ハワーズ・エンド』『日の名残り』以来のアイヴォリーの傑作として絶賛されたのだった。 才色兼備のアメリカ人女性シャーロットは、かつて恋人同士だったが、お互いの貧しさが原因で別れたイタリア人貴族のアメリーゴ公爵から婚約したことを知らされる。そのお相手はアメリカ人大富豪アダム・ヴァーヴァーの愛娘マギーで、彼女はシャーロットの親友でもあった。しかし、当のマギーはふたりの過去はまったく知らなかった。一方、美術蒐集家としても知られるヴァーヴァー氏は、いつしかシャーロットの美貌に魅かれ、彼のたっての野心であるアメリカでの美術館建設の片腕となってくれるよう、彼女にプロポーズする。こうしてシャーロットとアメリーゴは、図らずも義母と娘婿の関係になってしまった。果たして、彼ら4人の運命は……? これまでもアイヴォリーは、『ヨーロピアンズ』『ボストニアン』(ともにビデオ公開)とヘンリー・ジェイムズの小説を、2度映画化し、現代の映画監督の中では、ジェイムズの文学世界に最も精通したひとりといえるが、それらの舞台はいずれも新大陸のアメリカだった。そこで、アイヴォリーはジェイムズ作品の集大成として、イギリスの上流社会を背景に展開する小説の映画化の機会を窺っていた。しかし当初、彼の念頭にあった「ある婦人の肖像」(映画題は『ある貴婦人の肖像』)と「鳩の翼」が、最終的な脚本を進めていた段階で、上記のように他の監督によるプロジェクトが明らかになり、断念したいきさつがあった。 そこで脚本家のルース・プラーヴァー・ジャブヴァーラから提案されたのが「金色の盃」だった。難解といわれるジェイムズ作品の中でも、とりわけ人間の内面心理の描写と、抑制された散文で傑作の評価も高い「金色の盃」を、アイヴォリーは20世紀初頭のイギリスの上流社会に生きるアメリカ人たちの心情に、自らの実感を重ねあわせることで、時代を超えた共感を抱き、映画化を決意するのだった。 『金色の嘘』には、さまざまな“嘘”が見え隠れする。 シャーロットとアメリーゴは、それぞれの結婚生活を守るため、自らの心に嘘をつく。またアメリーゴとマギーの結婚仲介人となるファニーは、マギーを“汚れから守るため”アメリーゴの過去を彼女に知らせない。そしてマギーは、夫の不貞を確信したとき、何よりそれを父ヴァーヴァー氏に知られないよう、真実を胸の裡に収めてしまう。それは父の結婚生活が破綻しないようにとの一人娘の計らいに他ならないが、そんな父と娘の緊密な親子関係こそが、夫婦といえども踏み込めないアメリーゴとシャーロットの孤独を深め、結果的にお互いを求めあうことになってしまう。 果たして、“嘘”は人の心を守ることができるのだろうか? 善意の嘘、悪意の嘘。複雑に絡みあう感情の機微、社交の影に隠された本音。そして軽妙洒脱な会話に潜む繊細な言葉の綾。 そんな目まぐるしい“嘘”に彩られたジェイムズ文学ならではの2組の愛の移ろいを、アイヴォリーはジャブヴァーラの流麗な台詞運びを得て、普遍性に満ちたメロドラマのかたちとして見つめる。とりわけ、エンディングでシャーロットの自尊心を守るためにつくマギーの“最後の嘘”はあまりに鮮烈で、それだけでも功罪相半ばする“嘘”のありように思いを馳せたくなってしまう。そして、そんな閉塞的な社会通念の中で、自らの生きざまを懸命に見据える人々の姿こそが、アイヴォリー映画の真骨頂でもあるのだ。 |