●原作と映画の間●
「原作から離れることでかえって近づくヘンリー・ジェイムズの世界」
 青木次生

 小説「金色(こんじき)の盃」の映画を『金色の嘘』とするのは疑問だと感じる人があるかもしれない。しかし、考えてみれば、それなりに理解できるという気持もする。原作者へンリー・ジェイムズは、作中に大小さまざまな嘘を織り込むことにかけては、右に出る者のない達人であったが、「金色の盃」にも数々の嘘が登場する。中でも特に肝心な嘘、二組の夫婦の生活は「万事申し分がない」「大富豪アダム・ヴァーヴァーの若妻シャーロットとヴァーヴァー氏の娘婿アメリーゴ公爵の間には、起きてはいけないことは何も起きなかった」という嘘は、二組の夫婦が、それぞれ六年と四年を経て、ようやく本当に夫婦らしい生活を始めるための重要な嘘なのである。原作には見られない場面がいくつか付け加えられているのは、一つにはこの嘘の役割を強調するためかもしれない。原作と映画の相違点をあげつらうことの無意味を承知のうえで、この点について二カ所、映画の鑑賞に役立つことを願って指摘しておきたい。その第一は、冒頭、字幕の背景として、中世風の武装集団が押し入って、密会中の二人を虐殺する場面。残虐な殺しの場面は影でしか示されないが、後になってこれは公爵家の歴史的事実であって、三代目の公爵が十六歳の我が子と我が子と密通の関係にあった後妻の二人の首をはねる場面であったことが説明される。この歴史上の事実は映画の中の人間関係と重なり合って、多彩な男女関係の話に慣れてしまった今の私たちに、改めて前世紀初頭の男女感覚の違いを認識させる。
 蛇足と知りつつもう一つ。ヴァーヴァー氏がアメリーゴ公爵に語る、まだ若かった頃の思い出話。最初の妻と新婚旅行の際、パリのレストランで食事中、近くの席の男が妻に向かって怪しげな目付きをしたのを見て激昂、ナイフを掴んでその男に迫ろうとしたが、幸いそのナイフがステーキ用ではなくバターナイフであったために、大事には至らなかったという。これは滑稽な思い出話のようで、じつは、密通の事実に気づいたヴァーヴァー氏のアメリーゴ公爵に対する厳重な警告である。しかし、ヴァーヴァー氏は同じ場面で、自分たち二人は理想的な夫なのだとも言う。他の箇所も考え合わせれば、ヴァーヴァー氏は娘のような若い妻にも、許されない事態が生じたいきさつにも、同情ある理解を示すと同時に、自分自身も公爵も責任ある態度を示すべきだと言っているのである。この映画が全体としてヴァーヴァー氏の温かい真摯な人柄を描いていることに注目しよう。原作「金色の盃」を解釈する場合、論者によっては謎の人物とされたり、金の力に強引に物を言わせる好ましくない人物とさえ解釈されることもある人物が、この映画では、自分を育ててくれた地域社会への報恩の心あつく、機械文明の騒音の中で美術館が果たしうる役割を信じる献身的な人物、私的な生活でも社会人としても美術蒐集家としても、熟慮と決断の人として、ニック・ノルティによって見事に演じられているのは感動的である。金色の嘘はたんなる隠蔽、ごまかしではない。この映画は、中世風の野蛮を脱しながら、私たちを取り巻く最近の性風俗とは異質の品位を保とうとした人々の物語なのである。当時有閑階級の間で流行した豪華な馬鹿騒ぎに対してヴァーヴァー氏が断固静かな距離を置き、その気持をアメリーゴ公爵がよく理解しているのも見逃せない点である。