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●原作と映画の間● 「原作から離れることでかえって近づくヘンリー・ジェイムズの世界」 青木次生 さまざまな変更にもかかわらず、原作のジェイムズの作品らしさが保たれている点にも注目したいと思う。一例をあげれば、原作の表題となった金張りの大盃。この盃はマギーが父親の誕生日のお祝いとして偶然買い求めたことによって二度目の登場をし、父親の妻シャーロットと娘マギーの夫アメリーゴの間に不義密通の関係があったことの動かぬ証拠とされる。しかし、小説の場合にも映画の場合にも、忘れてはならないのはこの盃が最初に登場した場面である。ジェイムズという小説家は、例えばX婦人にさりげなく真実を語らせておいて、その数十ページ後に、いや数百ページ後に、今度は同じX婦人に同じ事柄について平然と嘘をつかせ、語り手、あるいは作者に注意されなくても、読者がその嘘に気づくような精読を、細部にわたる作品全体の把握を、要求する小説家だったのである。五年前、マギーとの結婚式の三日前にシャーロットと一緒に問題の盃を見たときの自分には、何一つ疚しいところはなかったと公爵が言うのは、私の翻訳書で四百ページ前を参照すれば、嘘ではなく、偽りのない真実であることが納得されるだろう。あの時のお二人は、婚約中、いやご夫婦のように見えた、という美術商は正確な記録に基づいて真実を語っているようで、じつは嘘つきである。嘘をつきながら同時に、完璧な品だと嘘をついて売った盃にはじつは欠点があるのだと真実を告げて半値に値引きするあたり、この美術商、なかなか食えない男、この場面全体が、マギーの過剰な想像力が掻き立てられることもあって、論じだすときりがないような嘘がらみ、空想がらみの傑作である。 細部にわたってじつに見応えのある映画ではあるが、一つだけ疑問点をあげてみたい。ヴァーヴァー氏は、アメリカに建設中の美術館の運営のために、協力者の必要を感じていた。シャーロットがその協力者の地位に納まる成長過程を少し強調するのは無理だっただろうか。ヴァーヴァー氏とシャーロットが一緒にトルコタイルを見に行く約束をした後、映画の場面はローマに飛んで、娘夫婦にシャーロットとの結婚の許しを求めるヴァーヴァー氏の電報が届く。しかし、小説ではその前に美術商の自宅で巨額の取引が成立する場面があって、ヴァーヴァー氏はその場面で、シャーロットの美貌と言うよりは、取引が行われている間、静かに目立たずにいることも、取引の後の家族ぐるみの食卓を華やかに盛り上げることもできる彼女の、指図を必要としない心憎い気配りに感動し、結婚しようと決心するのである。ヴァーヴァー氏の眼は確かである。原作では、最後に美術品搬出の重責を委ねられ、アメリカに美をもたらす使命を語るのは、シャーロット自身である。とはいえ話を原作に近づけて、彼女が自分をお手伝い扱いしたマギーからお父さまもお宝も奪い去って、アメリカへ凱旋するのだとした場合、映画の魅力は深まったであろうか。大富豪の娘と結婚したかつての愛人に捨てられた悲劇の女性、というのはいささか通俗的だが、だからこそかえってユマ・サーマンの演技がさえ、忘れ難い印象を残すのかもしれない。映画は映画の条件に従って原作から離れ、原作から離れることによって、もしかしたらかえって私たちをヘンリー・ジェイムズの文学に近づけてくれるのかもしれない。 最後の白黒の映像は原作にはない付け足し。傷心の人シャーロットの、まだ信じきれない未来の夢、であろうか。 青木次生●あおき・つぎお 1932年、長野県生まれ。信州大学教育学部卒業後、京都大学院修士課程終了。イェール大学、ニューヨーク大学に学ぶ。現在は、京都大学文学部名誉教授、甲南女子大学文学部教授。文学博士。ヘンリー・ジェイムズ研究の国際的権威として知られ、翻訳にいずれもジェイムズで「鳩の翼」(講談社、1974年)「聖なる泉」(国書刊行会、1979年)「檻の中」(国書刊行会、1984年)「金色の盃」(あぽろん社、1989年)など多数あり、いずれも名訳として知られる。 |